数字

 

 

 

"1+1"はいくつなのか。

 

たぶん、数学的には 1+1=2 だし、そんなこと下手したら真冬でも半袖短パンで走り回ってる幼稚園児によく似たお猿さんでもわかるかもしれない。

 

でも、いつも 1+1=2 になるとは限らない、っていう幼稚園児と厨二病の狭間みたいなことを考える時間が、好きだ。

 

この1+1について考えてる時間は、現実主義で成果主義のバリキャリさん(尊敬しかないです)みたいな人間からするとアホくさくて堪らないのかもしれないが、わたしにとっては、自分の人生を左右し、そして支えてくれる、計り知れぬ価値を持った時間なのかもしれない。

 

確かに、労働や学習で何かを吸収したり得たりすることは可視化された利益になる。でも、物思いに耽ったり人生に悩んだり、常識を疑うことだって立派な経験だし、それは誰にも盗られることのない利益ではなかろうか。こういう時間が、1+1が2ではなくなる瞬間だと、思う。

 

 

現状に、事実に、囚われるな。疑え。

そんな言葉をどこかで聞いた気がする。

 

1+1は、数学的に2であることは言うまでもない。でも一旦数学はそっちのけで考えれば1+1が2である必要性などどこにもない。0になっても、3になってもいい。

そういう思考回路こそが、夢を見させてくれると信じている。

 

人生は無限ではない。

80歳まで生きると仮定すると、あと60年ある。

途轍もなく長いような気もするし、でも、案外ぼやっとしているとすぐなくなってしまうのかもしれない。

そんな中で、自分の人生を海のように広く、深く、果てしないように思わせてくれる要素足り得るのが、自分の価値観であり思考であると思う。

 

1+1が2にならない世界に、飛び込んでみる。

 

人間は、自由だ。

果てしない選択肢の大海原に放り出されてしまった人間は、漂流しながら生きている。

海に潜ってみるもよし、流木に捕まってみるもよし、自分でたくさんの船を作ってみるもよし。もしかしたら大型貨物船や、豪華客船に拾われるかもしれない。

人生は予想もつかない旅だ。毎日が、出会いと別れの連続だ。新しい価値観に出会い、古い自分に別れを告げ、時に虚勢を張って生きている。

 

でも決して居場所がなくなることはない。

この社会にだって、不変の真理もあるからだ。1+1が数学的には2であるように。時を経ても変わらないものがそこら中に転がっている。

1+1が2であると証明してくれた太古の数学者のエライ人、ありがとう。不変の真理を構築してくれて、ありがとう。

 

自分の居場所だってそうだ。自分が存在すれば、そこは不変の居場所である。

それもいつか、泡のようにふっと消え、水に流されてしまうけれど、そこに存在した事実に変わりはないだろう。

 

 

今日も相変わらず日は昇り、沈んでゆく。

変わらない日常も、変わりゆく日々も、大切に抱えて、社会とか世界とかそういう名前のついた澄んでいるのか濁っているのかすら曖昧な海で、波に揺られていたい。

 

サメと悪天候にちょっとだけ怯えながら、晴れた日は空に浮かんだ雲を数え、夕日を眺め、夜になって綺麗な星空を仰ぎ見ながら眠りたい。

 

目を閉じて、深呼吸をしてみる。そしてまた目をゆっくり開いた時、何が見えるだろうか。何を考えるだろうか。

 

目を閉じて深呼吸することの大切さを、忘れてはいないだろうか。日常が、永遠だと思ってはいないだろうか。小さな幸せを踏み潰してはいないだろうか。

いつまでも晴天は続かないし、いつまでも星空が綺麗なわけじゃない。満月もやがて新月になる。明かりのない世界はいつか訪れる。

 

移ろいゆく日々の中で、変わりゆくものも、変わらないものも受け入れることのできる寛容さと、柔軟な価値観を持つ人間になりたい。この世界という大海原で、力を抜いてプカプカと浮かんでいたい。

 

 

今日は、天気がいい。

今日も太陽は東から昇ってきた。

多分、西の方へ沈んでいくのだろう。

 

 

小さな地球の小さな島国からは、そう見えるのだ。