大学

 

 

何のために大学へ行くのか。

何のために大学に通っているのか。

 

 

 

雨が降っているのに1限から必修の授業が入っている日。曇天で気が重いのに電車が遅延していたり、運転を見合わせている日。1限から5限まで授業に出た後にバイトへ行く途中の電車。なんでもない日曜日の朝。

 

いつだってヤツはふと、問いかけてくる。

 

 

 

「お前はなんで大学に行こうと思ったんだ、義務教育でもないところに親に大金を積んでもらって挙げ句の果てには不登校、二浪までして通って、何の意味があるんだ、明確な将来の計画あるのか」

 

 

こうやって、問いかけてくる。

絶望である。挑戦したいことはあるけれど、どれも飽き性で無能な自分には敷居が高すぎる気がするから。

 

 

 

勿論、大学に行ってなにかの資格を取ることが出来たならそれは凄く将来にとってプラスのことだろうし、自分の糧になる。努力した結果として得られた勲章だから。

そうでなくても、大学在学中に自分の得意な分野を見つけて勉強を続けられたらそれは素敵なことだ。

学んだことは誰にも奪えない。自分だけの経験で、自分だけの宝物だ。

 

 

 

つまるところ、将来の生活のために大学に行っている人間も多いのではないだろうか。「ある程度の有名企業」に就職したり、公務員になったりして「ある程度」の給料をもらって「ある程度」で「普通」か「普通以上」の生活を望むのだ。

 

 

なにが「普通」でなにが「幸せ」なのだろう。

苦痛が少ない暮らしが「普通」で「幸せ」なのだろうか。「普通」じゃない、ということはマイノリティーにカテゴライズされることが多いと想定されるけれど、その「マイノリティー」の基準は何なのだろうか。

 

 

結局はなんだって「一個人」の「価値観」であり、その価値観に基づいたなんらかのロジックを「社会一般」で「許容されている」ものだと信じ込むことで「普通」という怪しげなレッテルを貼っているのに過ぎないのではないだろうか。

 

そして「普通」であることは「幸せ」なのだろうか。「普通」の定義が揺らいでしまった以上、「幸せ」を定義することも困難になったし、そもそも「幸せ」の定義なんて一人の人間でも時間や場所次第で変化する。「幸せ」という概念なんてないのかもしれない。

 

現に「苦しみ」や「苦痛」の先にどうしても掴み取りたい結果や功績があったとき、「苦痛」を味わうことですら「幸福感」に繋がることを否定できないだろう。

 

人間は生まれた瞬間から死に向かって歩いているのに、希望を求めて生きている。希望とはなんなんだろう。死は究極の希望なのだろうか。

なのに我々は身近な人の死を、他人の死を嘆き悲しみ、地球の裏側で消えゆく人間の命を惜しむ。

 

矛盾だらけの社会だ。

矛盾だらけで、漠然としている。

正しいことだって捻じ曲げられてしまう世界に「良い」とか「悪い」の定義なんてものはもはや存在しない。最終的な判断は全て自分の手で下すのだから、自分の価値観が一番大切なのだ。

個人の価値観に「過ぎない」ものを一番大切にしなくてはいけない。これこそが矛盾であり、漠然とした不安を齎し得る。

 

私たちは日々の生活の中で「より良い」選択をして「幸せ」を掴み取れるように生きていることが多いのではないだろうか。ぼんやりと陰を宿す日々の中で光を求めて生きている、といってもいいだろう。

自由は、光だ。

 

そして、大学は「自由」だ。

大学に入れば、人生計画を練ることができ、将来へのヴィジョンが見えてくると信じている人間が少なくないように。

未来の展望に希望を抱きたいからこそなんらかの行動を起こしているのだ。

 

人間の行動のうち大半がが、巡り巡って未来に繋がることであると仮定すれば、人は無意識的に「幸せ」に生きる将来の自分を求めていることが多いのではないだろうか。

将来の自分が苦しんでいることを願って生きる人間は、そう多くない…と信じたい。

 

でも、大学に行ったからと言って日本の平均的な年収以上の生活が確約されているわけでもないし、大学に行ったことで就職先が決まる訳でもない。

大学にいったところで「将来への不安」などという漠然としている巨大な恐怖は何ら変わりはなく居座っている。ただそれだけだ。

じゃあ何のために大学に行くのか。

 

学びたいことがあるから。大学に行けば専門的な知識や教養を身につけ、国際社会に通用する人間になれるから。ずっと志してきた夢があるから。好きな教授がいるから。キャンパスが好きだから。理由なんて考えればいくらだってあるだろう。

 

 

きっと、そんなものはなんだっていいんだろう。自分のやりたいことをすればいい。

自分の核となる価値観を形成して、自由な世界で自分を貫き通せる、そういう人間はカッコイイ。他人の意見に対して柔軟な頭をもっている人間も、カッコイイ。

そう。大学に行くと、色々な人間がいる。彼らと同じ教室に座っているだけでも新たな価値観や視点に気づくことができる。「大学」という名のついた場所に、一定の基準を満たすことで足を踏み入れることが許可された。それはつまり、人生において「刺激」を受けることを許可された、ということなのだ。

そうやってさまざまなルーツを辿って生きてきた多様な人間と接するだろう。新たな出会いに感謝したり、失望したり。そういう刺激は、かけがえのないものだし、時に人生を変える。

貴重な経験だ。

 

スッカリ綺麗事を並べてしまったが、これは個人が大学に期待する、理想の大学像に過ぎないわけで、現実ではない。ここまでに連ねられた文字の中の理想の大学像も、大学への思いも、あくまでも「文字」の組み合わせによってできた「言葉」であり、「文章の連続」であり、「物語」に過ぎない。

 

 

ここから先はあくまでも一個人の意見であるが、大学に入った意義は「無限に悩む時間を与えられた」ことだと感じている。

この先の進路だったり、自分の専攻したい科目だったり、大学に通う意義だったり、そしてどこの大学に通いたいと思うか、もだ。

 

大学に入学した途端、人脈作りやら履修科目やら、サークルやらゼミやら、個々の課題の研究テーマやら、自らで悩み、決めていかなくてはいけないことが圧倒的に増えた。取捨選択せざるを得ない機会が増えた。

これこそが大学に入った意義なのではないかと思うのだ。

自分の道を自分で決め、恐る恐る一歩を踏み出す。前に進んだり、立ち止まったり、後戻りしたりの連続だ。そうやって自分のとった1つひとつの行動に対してしっかりと責任を持ち、何度も自己と対峙して自分の言動に対しての自省と解決策の提示、自己分析を繰り返すことのできる人間になる為に大学にいる。

 

人生を共にするような学問に出会えたら、それは奇跡だ。自己分析が実ったのかもしれない。

1つの学問や分野をきわめることによって、長時間に渡って自己と対峙することが余儀なくされるだろう。そこで新たな自分の可能性や、機会を掴めることこそが、大学の魅力では無いだろうか。

 

転がっている石ころの中から、原石を見つける旅こそが大学生活なのだ。

モラトリアムでありサナトリウムでもある大学は、「悩み」というものを無限に投げかけてくれる。それこそが大事なのだ。

 

大学生は「大人」だ。自分で自分の道を選んでいかなくてはいけない。

 

責任の所在を確かにすることが「大人」の役割であり、人間が共存していくために不可欠なことではないだろうか。

 

 

自分をきちんと「裁く」ことの出来る「大人」になりたい。

「自由」であり「意志を重んじる」ことができる人間でありたい。自分にも、他人にも。